あきらめの悪い人

 

父はあきらめが悪かった。

あきらめたら何かが終わってしまうと思っているみたいに、 いつも厳しい顔を浮かべていた。
 家族3人で鍋をかこもうという時もそうだ。
 ガスコンロのガスが切れているのに、 父は何度も何度もスイッチをひねり続けた。

火元をのぞきこむ真剣な目つきを思い出す。 カチカチカチカチという音がいつまでも鳴り響いて、 冷たいおだしが寒そうにふるえていた。

幼い私は、 時折その水面を薬指でつついてなめ、さびしい口をなぐさめた。

母によっておなべがキッチンのガスコンロに移されたのは、 1時間もしてからだ。
 ジェネビーがいなくなった時もそう。
 父だけがいつまでも、何年経ってもジェネビーをさがしていた。 張り紙をするでも聞き込みをするでもなかったけど、 ジェネビーの好物だったササミを持って1時間の散歩を日課とする ようになった。

母と私は、 自分たちが薄情になったような気がした。だけど、 同じようにはできなかった。 もちろんジェネビーが帰ってくることを願ってはいたけど。
 あれよあれよという間に私が嫁ぐ時、 三人で行くのはこれで最後だしと温泉旅行に行った。

母は父について「かなりさびしがっている」とつげ口したけど、 私には特にそんな様子は見られない。

車を運転する横顔も、 いつも通り。ガスコンロをのぞきこむ時と同じ、 神妙な顔つきでまっすぐ前を見ていた。
 すこし無理しただけはある立派な旅館へ早くに着いて、 まだ明るいうちに温泉へ行った。

そこもやはり広くて、 人もほとんどいない。私と母は並んで、 少し離れて露天の湯につかった。熱いお湯が体中に染みわたる。 信じられないくらい、いい気分だった。
「お父さん、ぜんぜん普通だけどね」
「案外そうみたいね。でもどこかでしっぽを出すわよ。 けっこう涙もろいんだから。ほら、 ジェネビーが見つかった時だって」
「そんなこと言ったらかわいそう」
 あの時、父はジェネビー(ヴ)を抱えて帰ってきた。

夏場のとくべつ暑い日で、 半袖の腕はきり傷とすり傷だらけだった。

私と母は本当に驚いて、 玄関で立ち尽くした。

少したくましくなったジェネビーは下ろされると、 そろそろ歩いて窓まで行って、ガラスをひっかいた。 部屋にいる父や私には見向きもせず、 あんまりいつまでもやっている。 ガラスをひっかく小冷たい音だけがずっと流れる。

観念した父は、 窓を開けてやった。

すると、ジェネビーはくるりと振り向いて、 うちにいた頃と同じ調子でとことこ歩き、 ソファに飛び乗って丸くなった。父は泣いてしまった。
「大体、あれは今回とは逆のケースよ。 ジェネビーは戻ってきたんだもの。 お父さんってあきらめが悪いじゃない? でも、あの時だけはあきらめてたからさ、 それが思わず覆されて泣いちゃったんだと思う」
「じゃあ、あんたが結婚破棄したら泣くってこと?」
「そうかもね」
「いやよ、縁起でもない。せっかく肩の荷が下りたのに。 ていうか、あの時お父さん、窓開ける時には泣いてたわよ」
「そうなの?」
「そうよ。もうダメだって時にはね、泣いちゃうのよ。 若い頃からそうだけど」
「じゃあ、泣かないと思う。ていうか、この声、 聞こえてるんじゃないの?」
 私たちは黙りこんだ。わき出てそそぐ湯音の上を、 冷たい風が柳を揺らして通り過ぎる。

幸せな結婚とはなんだろう。 それは、いつどこで誰がするにしても、 父と母のようなことだろう。

体中が溶け出しそうな熱い熱い心地よさが、今日ぐらい、 そういうことを思わせた。
ひこうき雲、見たか?」
 部屋に戻ると、体中をほてらせた父が開口一番に言った。
 私も母もぽかんとして顔を見合わせた。
「露天風呂から見えただろ。 上がるときには散らばってただの雲だったけど」
 広い露天風呂で一人、 空を眺めている父を想像したらおかしかった。

でも、 そうしてくれて全然いい。 いつも厳しそうに何かを見つめている父だから。
「ああ、ただの雲なら最後に見たかも。話してたから、 ぜんぜん気づかなかったよ」
「そうか」
 それだけ言うと、父はリモコンをとってテレビをつけた。 でたらめにボタンを押しては、 勝手がちがうチャンネルを順番に見ている。そんなことぐらいで、 いつもの真剣そうな目つきになる。
 父さんが見ているものはなんだろうと、私はその時、 初めてちゃんと思った。

父さんが見たひこうき雲、 私は見られない。

でもいい。車を運転するように、 ちゃんと見ていてくれるから。ジェネビーも、だから見つかった。 父さんだけがジェネビーのこと、いつまでも見ていてくれたのだ。
 だから、最後の最後にあきらめたら、 その時はいつでも泣いていい。一番最後にあきらめた人にだけ、 涙を流す権利がある。露天風呂で母は、 お父さん披露宴で絶対に泣くからと五千円賭けた。

私は泣かない方に賭けたけど、その時の変な自信は、頭上にあった ひこうき雲のようにどこかへいってしまった。

 

ただ、恋人と腕を組んで歩いている、というそれだけの理由で、おちつきはらってあたりを見回していた少女。

フランツ・カフカ

 自信を持つのは良いことだ。いつかパパがお風呂で言った。

湯船の中、私はパパと同じ方を向いて足の間に収まり、その言葉を聞いていた。

どうしてそんな話になったのか、何を思ったかは覚えていない。ただ、双子の島のように浮いたパパの両膝の上に腕をのせて、私はひどく落ち着いた気分でちょっとのけぞり、今と同じく肩ほどまでの髪をお湯の中に浸してのさばらせていた。

優しくぬくい温度が硬い骨に守られた考え事を包み込み、毛穴を開いて忍び込む。

きっとそこで頭の中がとろけてしまい、悪いことから順番に、耳の穴から抜けていく。そんなふうに感じていた。
 

だから私はいやなことがあると、同じように重たく鈍い頭を浸した。

誰かに意地悪された日も、先生に怒られた時も、ミリが白血病で死んだ日も。そんなことしてすぐにけろりと治るわけではないけど、不思議と大抵、悲しみの角はなくなった。

何よりとても気持ちが良く、お風呂に入るたびの儀式となった。


 それが効かなくなったのは中学生になってから。理由はきっと単純。

中学生になってまず胸の張ってきた私は、その恥ずかしさとみっともなさに気づいてしまい、パパとお風呂に入らなくなった。すると、いとも簡単に魔法は解けた。一度お湯に溶け出していった悩み事は、今度は私の体に染み込んできて、天に唾するような、一度自分の体を離れたものを再び自分の中に取り込むおぞましさは、重い鎖を私に繋いだ。


 要は、悩み事や考え事でうじうじする時、私には温かいお風呂だけでは足りなくて、後ろにパパがいなければいけなかった。一人でする鬼ごっこは、つらい。鬼の役目を誰かに預けなければ、私は前に進めない。進む意味に気が付けない。


 思春期になったら髪の毛が重かった。お坊さんがつるつるに頭を剃り上げるのも、重たい頭を軽くするためだろうし、同級生たちの大胆不敵に梳かれて計算ずくで整い上げられた素敵なヘアスタイルを見るたびに「悩みがなさそう」だと決めつけたのも、そういうことだったのだろう。


 効果がなくなっても相変わらず儀式は続けていた。

お風呂の中では、誰もがきっと、魚かも知れない。ただ、魚が悩みを持ったらどうだろう。

あのちいさなかしこいスイミーと同じように、誰かに必要とされるしか生きてゆけない。でも、誰かに必要とされたいと願っている限り、誰かに必要とされた時のうれしさはちょっぴりすさむ。空から降ってくるようにではなく、私の頭から、体から、発されていた願い、それが叶って私に戻ってきたら、もちろんとてもうれしいけれど、そこには言いようのない澱が残る。努力を重ねたスポーツ選手や芸術家ならいざ知らず、何にもしてない私は、私の痕跡に堪えられない。


 中学二年。クリスマスでも冬でもない、6月のある日のことだった。
「真琴ちゃん、サンタの正体がわかった!」


 仲良しの丹ちゃんが興奮気味に私の机に乗っかった。
 意味がくみ取れず、「サンタはサンタじゃないの?」と私は言った。恥ずかしながら、パパとママのおかげで、私はまだ彼の存在を信じていた。
「違うの、サンタは恋人なの」
「どういうこと?」
「恋人がサンタクロースなの」


 "なの"が口ぐせの丹ちゃん。わけがわからず戸惑っている私の右耳に、丹ちゃんはイヤホンをねじこんだ。丹ちゃんの熱少し温まったイヤホンに胸が騒ぐ。何かが少し溶け出してしまいそう。そして左のイヤホンは丹ちゃんの左耳へ。
 

あらかじめ準備されていたみたいで、曲はすぐに始まった。

 

 今考えると、それは歌詞の中の「私」よりもずっとお子様だった私には二段階も早かった。


 パパがサンタだという理解を経て、恋人がサンタになることができるのに、どちらも知らぬ存ぜぬの私にはとてもじゃないがきちんと理解できるはずもなく、しかし恋人がサンタクロースだというのはなんとなくロマンチックな感じがしてうれしくもあり、少し気分が盛り上がっていたのだろう。私は言った。


「丹ちゃん、じゃあサンタって、恋人のことなんだね」


「そう! ステキなの!」


「じゃあ、今は誰なの?」
 

丹ちゃんがきょとんとしているんだから、そこで話を止めるべきだったのだ、本当は。


「丹ちゃんに恋人はいないよね。私にもいないよ。でも、プレゼントはもらえるよね。じゃあ、今、プレゼントは誰がくれてるの? 私はほら、今使ってる手帳もらったんだけど、誰がくれたんだろう?」


 丹ちゃんは急にニヤリと意地悪そうに笑った。それからふっと明かりが消えたみたいに真面目な表情を、憧れの白い白い肌の上にたたえた。


「真琴ちゃん、恋人になる人って運命で決まってるの。運命の赤い糸って言うでしょ。だから去年も今までも、将来の真琴ちゃんの恋人が、真琴ちゃんのために、真琴ちゃんの一番欲しがってる、一番似合う、ステキな手帳をくれたの」


「じゃあ手紙も届いてるの?」


「手紙?」
 

丹ちゃんは思わず吹き出して、私はと言えば、そんなことにもめげないぐらい本当に鈍だった。


「うん、いつもありがとうございます、今年はこれをくださいって書いてるやつ」


「当たり前じゃない。何言ってんの」


 相変わらず笑ったまま丹ちゃんは私の肩に触れる。そしてその手を離して私の薄い耳たぶに触れて、そっとイヤホンを取った。カナル式のイヤホンがすぽんと小さな音を立てて、丹ちゃんの手に巻き取られる。私はそれを拭きたかった。サンタを信じてるくせに、そんなことが気になるなんて、何を考えていたんだろう。


 その日は一日ぼんやり過ごしたのを覚えている。


 私はお風呂の天井をぼんやり見つめていた。そこには、サンタとトナカイ、恋人の姿――いつも青いマフラーをしている同じクラスの桜井くんだった――がぐるぐる回っていた。

桜井くんが私に手帳をくれたと言うのだろうか。そんなことがあるのだろうか。

でも、それなら私が5歳の時にもらったピアノのおもちゃも、桜井くんがくれたことになるけれど、その時は桜井くんも5歳のはずだし、そもそも私は桜井くんにプレゼントをあげていない。

私は一人で勝手に桜井くんにフラれて、湯船で今にも泣き出しそうだった。中学生にもなって。


「ねえパパ」
 お風呂上がり、私はリビングでテレビを見ているパパの隣に座った。


「サンタクロースって、恋人なのね」


 お父さんが振り返る。お母さんもキッチンで洗い物の手を止めて、すぐに水の音がやんだ。


 私はあらましをなんとか説明して、最後に、桜井くんにフラれたことを告げた。みっともなくも涙ぐんで。お父さんはそこでテレビを消した。


「真琴」


「うん」


「今、真琴にクリスマスプレゼントをあげているのはパパだ。サンタクロースって、赤い服着たヒゲのおじいさん、あんな人はいない。クリスマスプレゼントは普通、パパがあげるもんだ」


 私は本当に驚き、ひっ、と声が出た。でもパパは頷いて続けた。


「恋人はある日、結婚するな」


「うん」


「恋人は、結婚するとパパになる」


「そうだね」


「でも、まだ桜井くんはパパじゃないな。将来、パパになるとしても」


「うん」

私はきっとちょっと笑った。


「今のパパは、今ここにいるパパだ。だから、桜井くんがパパになるまでは、真琴のサンタクロースはパパがやる。プレゼントもパパがあげる」


「でも、結婚したら、桜井くんにプレゼントもらえないんじゃないの? 私はママになるよ。ママになったら、もうクリスマスプレゼントなんてもらえないよね」


「真琴」


 遠くからお母さんの声。


「あなた、何言ってるの」
 

本当に本当に優しい声。


「もらえるに決まってるじゃない」


 私は凄く凄くうれしかった。桜井くんのことではなく、サンタクロースがパパだったことが。


 そしてその時も、自信を持つのは良いことだというパパの言葉を思い出した。私はきっと幸せになるだろう。そう信じられた。

 

 ちょうど大学を出て働き始めた春、パパが死んだ。橋の上で大きな大きなトラックに轢かれて、あっけなく。

お風呂でいつも私が腕をのせていた膝のところは右だけどこかに行ってしまって無いまま、パパは煙になった。


 ある夜、ママが一人、夜のキッチンで泣いているのを私は遠く聞いていた。二人が、ときどき三人がそこに立って、みんなで料理をつくっていた姿を思い浮かべながら。

同じように泣きながら。

しばらくは思い出したように、バカみたいに、パパがいるように後ろを空けて、私はお風呂の真ん中に座り込んで、バスタブの縁につかまり頭の後ろを湯にさらした。

少し長くなった髪がたゆたい背中を撫でる。もちろんパパはいない。いてもお風呂になんて一緒に入るはず無いのに、今更こんなことをして、私は勝手だ。でも、その願いが叶う時、いやだなんてちょっとも思うはずがない。そこに私はいないから。パパのことだけを考えていたから。

 

 あれからいくつ冬がめぐりきたでしょう。私は二十うん歳になって、色々あって、"病気"を患ったお母さんを支えなければならなかった。
「なんか、そのお父さんのサンタの話、子供だましじゃない?」
「筋が通ってないよな。恋人にだってプレゼントはもらうしな」
 木枯らしの吹く駅前で、馴れ馴れしく声をかけてきた二人は私の長い思い出話を聞き終わるとひとしきり笑った。

 

 年末の忙しい仕事を普段通りこなしていたら、一週間はあっという間に過ぎた。


「ケーキいかがですか!」
 駅前の洋菓子店の前で、接客に慣れない男の子の声に呼び止められた。今日はクリスマス・イブだから。


 なんとなく近寄って見てみたが、店頭で売っているのはホールケーキばかりだ。空いているところにあったケーキは、もう誰かの家で食べられているか、今か今かと出番を待っていることだろう。


 母は食べられないから、私が食べる分を買うなら店内に入らなければいけない。そのうち、私の後ろでカップルが2組も相談を始めた。押し出されるように店内に入ると、お客さんは誰もいなかった。


 そして私は自分のために1ピースのショートケーキを買った。私の自信は今、これほどしかない。いったい何個集めれば、大きな幸せに満たされたような、あのまん丸のケーキになるのだろうか。


 店を出ると、さっきの内の1組のカップルがケーキを受け取るのが、急な明るさの変化に狭くなった気がする視界の端に引っかかった。確かに、一番小さなものなら二人でも食べられる。欠けることのない綺麗な円が柔らかいクリームで描かれた美味しい美味しいケーキだもの。


 メリークリスマスとつぶやいて私は横を通りすぎた。